私の祖母の名前は、ミチヱさんといいます。小さい頃は、おばあちゃんと呼んでいたのですが、いつの日からか、「若返った気持ちになるから」という本人の希望で、名前で呼ぶようになりました。
ミチヱさんは、もうずいぶん前に亡くなりましたが、今でも時々近くに感じる事があります。あの世で元気に過ごしていることでしょう。
幼い頃から祖父母と同居しており、祖父母が大好きだった私は、川の字に敷いた布団の真ん中で寝ていました。
大正生まれの女学校卒業のミチヱさんは、教育熱心でした。例えば、私の日課は、朝起きて布団の上で九九を唱えたり、ABCの歌を歌ったりすることから始まっていたものです。
小学5年の時、お裁縫の得意なミチヱさんに、家庭科の宿題の運針が下手すぎる!と言われ、へびのようなクネクネの糸を三本すべて引っこ抜かれ、ミチヱさんの目の前に正座をして、何時間もかけて何回も何回もやり直しをしました。おかげで私の家庭科は、5だったと記憶しています。
その後何十年も経ったある日、将来私の娘達と一緒に使ってほしいという手紙と共に送られてきた縫い方教本は、私の宝物です。
私は、そんなミチヱさんをとても尊敬しています。彼女は、孫の私から見ても非常に強く温かく、常に公平で賢い女性でした。
満州で終戦を迎え、私の母がお腹にいたのに、何日も何日もかかり、命からがら舞鶴まで引き上げたミチヱさん。この無事帰還がなければ私も存在しなかった訳で、想像を絶する精神力と判断力を持っていたのだろうと思います。
ミチヱさんは、孫達みんなにたくさんの愛を注いでくれた祖母でした。
チャンバラが好きだった従兄弟や弟には、ひいおばあさんの帯をほどき、袴を縫ってくれてそれは、私の息子も七五三で着用しました。
またある時は、私の産着をほどいて洗いはりをして、私の娘達に被布を縫って送ってくれました。長い間タンスにしまっていましたが、その被布は昨秋、私の姪がまた袖を通し、『愛のバトン』みたいだなぁと、姪っ子のかわいらしさも加わり見ていて胸が熱くなりました。
私が、古いものを活かして、新しいものと融合させるインテリアデザインが好きなのは、もしかしたらミチヱさんの影響を受けているのかもしれないなと感じています。
家に古くからあるものを、捨てないで生かす。それは、そのものに込められた『愛のバトン』をしっかりとつなぐ作業です。その昔にそれを作った職人さんへの敬意と尊敬の気持ちを忘れないという思いもあります。また古くなくてもその家々を象徴する何かをモチーフにするオリジナルデザインを考えるときは、胸がドキドキします。
例えば「蔵のある家」では、家紋をモチーフに建具をデザインしました。建具が入った時にクライアントのお母様が真っ先に気づいてくださり「あー。」とおっしゃったことは今でも忘れられないです。
家に古くからあるものや唯一無二のものには、その家族の大切な思い出やエピソードがあるはずです。私は、実際には作ったりということはできませんが、これからもクライアントの持つコレクションやそれにまつわる物語を生かして、実際に製作してくださる職人さんに感謝して、その家々の『愛のバトン』であるオリジナルデザインを提供したいと思います。